国会議員の顔ぶれに多様性を

参議院が、政局の府になってしまった。

臨時国会は、徹底した議論を通じて合意を見出す「熟議の国会」ではなく、党利党略・個利個略の「物議の国会」で終わった。国民が望む国会の姿ではなく、自滅的な混乱に陥っている。

国民の税金が使われている国会議員が、政略優先で政権への打撃ばかりを狙い、その政策に反対しさえすればよいとする「選挙のための反対」では何に生まれない。与野党は、妨害の政策に明け暮れるばかりで、重要な課題解決に取り組もうとしない。

いま重要な課題と言えば、雇用である。若者が人間としての存在価値さえ否定されている前代未聞の就職難を打開し、完全雇用をどう実現するか、尖閣諸島北方領土北朝鮮問題、年金を含む社会保障制度など、党派を超えて取り組む必要があるにもかかわらず、その責任を共有しようという姿勢は全く感じられない。

憲法参議院議員に6年間の任期や安定的な立場を保証しているのは、長期的かつ大所高所に立った議論が期待されているからである。政治主導の時代には非常に高い能力と見識が求められるため、党議拘束を外し、議員が自分の信条や考えに基づいて行動すべきである。議員は勉強せざるを得ないからだ。

そうである以上、参議院が内閣の行方を左右したり、政局につながるような動きをするべきではなく、参議院から閣僚を出すのも間違っている。

いまのような参議院なら要らない。議員の顔ぶれが、衆議院と似ていること、審議の中身ややり方が衆参で大差ないからだ。首相の施政方針演説、各党の代表質問、予算や法案の審議から、委員会の構成まで衆議院とほとんど同じ。時間がかかるだけで無駄だ。

参議院には、衆議院をチェックして、バランスをとる役割があると言われてきたが、そのチェック役は期待できず、その存在が問われても仕方がない。衆参で同じようなパーソナリティの人たちが、同じような議論をしてもチェックにならない。

議員のパーソナリティも、世襲議員や官僚、地方政治家、政治家秘書が多数を占めており、多彩な人材がそろっているとは言えない。人材の流動性がない。流動化どころかむしろより固定化しているのが問題である。政党内で世襲議員が優遇されているのは、さらに問題である。また組織票と資金力を持つ業界団体や労働組合の上がりポストのような比例区は廃止すべきである。

政治における人材の問題は、政治主導の実現にとって極めて重要である。議員の子弟、という小さな世界だけでは、多様性を反映させた人材の確保はできない。

衆参で構成する議員が似ている以上、審議の中身も同じ。ならば、議員の選び方を変えるほかない。前職、性別、年齢、出身母体、社会階層が両院で異なるように、議員の多様性を創り出す仕組みが必要である。例えば、衆議院はより社会を反映させるため、多種多様な分野からフレッシュで若い人を、参議院は政治経験のある年配の人を選ぶのも一策である。

この国の将来の命運を分けているのが、「人材の流動性」の低さなのだ。同質的で人材流動性の低い国会は、ものの考えが画一的で、多様性に乏しい。多様な文化背景と価値観を持った議員の協働による化学反応など生まれない。議員の顔ぶれをがらりと変えて、多様性を打ち出してこそ、ユニークな価値観が創造される。

政治を行う人材の質を高めていかなければ、真の政治主導は産まれない。早急に日本社会が対応すべき問題は、「人材の流動性」をサポートする社会体制が遅れていることだ。

すべての雇用が流動化しようとしている今、国会議員にだけ「人材の流動性」がないのは、おかしい。まっとうな政治をせずに政局ばかりうつつを抜かす国会議員は要らない。

国会議員に「人材の流動性」がない限り、将来の可能性を奪われた若者の精神がなえるだけだ。