くじ引き民主主義が政治を変える

「天下国家」しか考えていないという小沢一郎は、裁判で最初から最後までウソを貫き通し、無罪となった。検察による虚偽調書のおかげである。「疑わしきは被告人の利益」で、限りなく有罪に近い無罪判決であった。決して潔白が証明されたわけではない。「天下国家」のことより、政治資金の操作術しか考えていないことが暴露された。

有罪であったら、日本の政治も少しはまともな方向に進むところだった。国民の目は、小沢氏の金にまみれた政治活動そのものに向いているのに、わかってないのは、財政難で破綻したマニフェストにいつまでもこだわり続け、小沢氏がいないと選挙に勝てない小沢一派だけである。

無実となった小沢一郎は、国政に大政局を引き起こし、橋下徹大阪市長と徒党を組んで、ポピュリズム選挙で独裁政権を目指そうとする。何にも決められない、動かない政党政治のせいで、また政局の繰り返しである。

支離滅裂な言動が多い橋下市長は、一国の指導者気取りで、これまた支離滅裂な政策を繰り返す政府を攻撃し、時局に便乗して世論を煽り立てている、敵をつくり、対立の摩擦熱ですすめるような、国の指導者気取りに振り回されるのも、政党政治が、何も決められないからだ。決められるのは、大臣の首を取ることだけ。野党の自民党もまた、落選議員の救済のため、早期解散ばかり要求し、政策なぞ、二の次、三の次しかないのだ。

ねじれ国会で、政局の府となった参議院を廃止し、一院制にしようとする議論も高まっている。解散のない参議院が、政局を左右させ、政治を停滞させているからだ。ダメ出しばかりする拒否権者が多すぎて、ポジ出しをする政治家がいないため、既得権者擁護の政治家が意思決定システムをどんどん破壊している。

数の力による政党政治では、政治が停滞する。政党を率いる指導者は、確かな時代認識もなく、使い捨てにされている。政党政治は制度疲労を起こし、国政は、時代の変化に対応できていない。議会制民主主義の限界である。選挙で選ばれた以上、全てお任せの白紙委任で好き勝手にやってくださいという「お任せ民主主義」は、稚拙な民主主義であって、大人の民主主義ではない。だから、選挙に行っても何も変わらないと合理的無知を選択する人々が増大するだけである。

時代にふさわしい統治の仕組みにするには、政治の根幹から変えるほかない。

権力資源を持たない市民が、組織の力を借りずに、ダイレクトに政治、社会に影響を与えることが重要だ。感情や情緒に訴えるポピュリズム選挙で出てくる政治家より、政治を理性的に判断できる知的な市民を重視すべきである。

そのためには、投票によらない政治改革が必要である。少子高齢化社会では、選挙だと、数が多い高齢者世代寄りの政治になる。社会保障にしても世代格差が、深刻になる。若い世代の声を政治、社会に反映させるためにも、投票ではなく、くじ引きで無作為に選んだ市民に参加させ、意見を政策に反映させるべきだ。市民参加型の「市民討議会」という取り組みが全国の自治体で既に広がっている。幅広い市民の思いが行政に反映されている。欧米でも、無作為抽出などで「普通の人々」を選ぶのが一般的である。

社会の縮図とも言える「くじ引き民主主義」で、市民感覚に根ざした政治に変えていく。「くじ引き民主主義」は、古代ギリシャアテネから始まっている。議会ではなく、あらゆる公職や権限をくじ引きで決めていた。くじ引きこそ、一番民主的な方法であった。アメリ憲法フランス革命に理論的な影響を与え、三権分立の父として知られるモンテスキューは、「法の精神」で、代議制は貴族的で、くじ引きこそ民主的であると述べている。水平な人間関係を礎とする「くじ引き民主主義」が、大人の民主主義に変えてくれる。代議員制による間接民主主義では、投票に行っても、何も変わらない。国政に市民個人の意見を直接反映させる参加型民主主義が必要である。

稚拙な民主主義から脱却するためにも、選ぶ仕組みを変えるべきである。先ず、参議院は、選挙を経ずに無作為で抽出された市民を参加させる。衆議院は、大臣や、閣僚になりたい人、法案をつくりたい人を、選挙で選べば良い。但し、議決権は与えず、市民参加の参議院が、議決すればいい。法案を評価するのは、市民の判断で十分だ。衆議院参議院とで、それぞれ異なる機能を分担させる。現行の衆議院参議院は、ほとんど機能が重複しており、チェック機能がまったくないからだ。税金の無駄使いである。